映像にすることで伝わるダンスを経験する
白井剛インタビュー

約10ヶ月におよぶ、ビデオダンス制作プロジェクト「Choreography filmed: 5days of movement」。白井剛の代表作でもあるダンス作品「質量, slide ,&  .」の発表から6年—。初の本格的なソロ作品の発表から、映像作品「質量, slide ,&  . in frames」の構想、制作に至るまでの経緯について、話を伺った。

#1 ─ まずは、新作ビデオダンス「質量, slide ,&  . in frames」の起点ともいえる、ダンス作品「質量, slide ,&  .」(2004年初演)について教えてください。この作品は、白井さんの代表作としても、そして、今回のプロジェクト「Choreography filmed: 5days of movement」においても重要な意味をもつ作品だと思います。映像作品にも同様のタイトルが含まれていますが、このタイトルには、どのようなコンセプトが含まれているのでしょうか。

「質量, slide ,&  .」は、シアタートラムの独舞シリーズ*1をきっかけに制作し、発表した作品です。それまでにも、ソロの作品を制作してはいましたが、構成・演出・振付・出演をおこない、1つの公演すべてを本格的に作り上げたという意味では、とても大きな作品だったと思います。 タイトルは、一言でいうと「質量感」を示しています。ここには、ダンスをすることへの衝動や経験が関係しています。僕は、木を見ると、蹴りたくなる衝動があるのですが、それは、ぶつかったときに自分の身体に返ってくる衝撃への興味だと思うんですよね。木の存在ではなく、自身の身体を感じるような……。ほかにも、跳ねたり、ターンしたりして、自分の身体に遠心力が働くことが、面白かったりしますよね。こんなふうに、ダンスをすることには、自分の身体の重さをつかうことが多く含まれています。ほかのダンサーと「宇宙に行って無重力だったら、踊れるのか」って考えたことがあるんですが、自分の身体に重さがあれば、たとえ浮いていても、ダンスはできると思うんです。床はないから、バレエなんかは難しいけど、自分の身体があって、重さがあれば、ダンスはできる。ダンスをすることの楽しみ方に、自分の身体の重さ=質量は、常に関係しているのだと思います。

*1 注目の振付家・ダンサーのソロダンスを上演するシアタートラム(東京、世田谷)の上演シリーズ。白井剛「質量, slide ,&  .」は、シリーズ12回目として2004年12月に発表された。

#2 ─ 〈ダンスをする=自分の身体の重さをつかう〉ことの楽しさは、普段の私たちの何気ない行動にもあるように思います。「質量感」をひとつのテーマに、どのようにして、ひとつのソロ作品が生み出されたのでしょうか。

作品では、「重さと戯れる」というダンスの大きな核を考え、自分の身体をどうやって扱うか、たとえば、重さに振り回されたり、バランスを崩したり、仲良くなったり、うまくいかなかったり、それ自体をひとつのテーマにしています。自身の身体との付き合い方は、もちろんいろんなダンスで考えられてきたことですが、「質量」を中心に考えることで、自分の体を客観的に感じることができます。そうした感覚を、ひとつの作品にしたんです。もうひとつ、この作品では「存在感」というのも大きなキーワードになっています。体重計で測定する値、重力との関係でなく、そこに質量感や手触りなどがあることによって、人間は、あらゆるモノに愛着を抱いたり、恐怖を感じたりします。モノにさえ、ある種の存在感を覚えるんですよね。生命を感じているのかもしれません。作品には、たくさんのモノ(角砂糖やボーリングの球など)が登場するのですが、ここでは、モノとダンサーとの関係から、モノへの存在感を表現することに挑戦しています。その糸口や方法として「質量」ということを考えているのです。

#3 ─ タイトルにある「slide」も、質量感や存在感に関わるキーワードなのでしょうか。

クリエーション・マネージャーとして演出助手をやってくれた村上克之くんと、このタイトルについて話をしていたときは、顕微鏡で使用するプレパラートの印象で例えていました。プレパラートっていうのは、スライドグラスの上に水滴があり、そのうえにカバーグラスがありますよね。作品タイトルにある「slide」とは、カバーグラスの浮いているような、付着しているような、あの隙間の印象なんです。
すごく感覚的な話になりますが、モノの存在感を実感するときは、その環境全体に関わる、ある種の事件が起きている感じがします。重たいモノがあれば、空間が歪む、時間が歪むといった相対性理論にもかかわることなんですが、私たちは、日常においても、ダンスにおいても、それを十分感じているように思います。自身とモノとの関係、モノとモノとの関係は、互いが静止していても、その間は、決して止まっていない、常に動きがあるのではないかと。モノを触る、持つといった動作を考えてみても、何かの存在感を感じ、距離をはかり、そこを抜ける、それに届かせる感覚が生まれると思うんです。質量感や存在感と同時に、モノと身体との関係よって生じる、「ある種の事件」が、この作品では題材になっています。

#4 ─ 今回、白井さんの初のビデオダンス作品を発表されますが、映像作品の制作は、以前から構想されていたのでしょうか。

映像制作は、舞台で使うものを含め、これまでにも経験がありました。ダンスをはじめたのと、映像を制作しはじめたのは、ほぼ同時期です。ビデオカメラが普及した頃には、ハンディカムで、自分の踊りやほかのダンサー、風景なんかも撮影し、ざくざくつくるということを繰り返していました。当時は、そういうのが流行っていたし、そういう発想が生まれていた時期でもあります。同時に、DVDの普及などで、優れた映像作品を見ることができるようになりました。そうなってくると、映像作品をつくろうと撮影してみたところで、自分でできる範囲のクオリティには、すでに満足できなくなっていました。新鮮味を感じなくなっていたんですよね。
でも、マイケル・ジャクソンの没後、昔のPVが大量に放映されたとき、漠然と「ダンスを映像で見る」ということを大きく意識しました。自分のダンスを始めたきっかけに、中学校や高校生の頃にテレビの深夜番組で見ていた映像が影響していることも思い出しました。亡くなった後に、その姿を見ることができるという点でも、「映像で見る」ことの貴重さを改めて感じる出来事でした。ほかにも、現在はYouTubeで、フォーサイスやピナ・バウシュまで様々な映像に出会えますよね。以前より、映像を介していろんな情報に触れる機会が増えたし、偏った情報だけでなく、受け手が自ら情報を選択できる。そして、意識せずに、たまたま、影響力のある情報に出会える可能性も大きくなっている。そうした環境を考えたとき、自分の映像作品をつくりたい、残したい、という思いは、常々大きくなっていきました。

#5 ─ ダンス作品「質量, slide ,&  .」を映像作品に再構成したわけですが、ダンスと映像という異なる表現形態については、それぞれ、どのように感じていますか。

やはり、舞台で表現する人は、映像にされるのを嫌がる場合も多くあると思います。その感覚は、僕自身にもあります。やっぱり、ライブで見ないとわからない、伝わらないことも多いし、ただ単純に、自分で自分の姿を見たり、自分で自分の声を聞いたりすると、気持ち悪い感じもありますよね。だから、ダンスを記録され、それを見られるということにも、抵抗をもってしまうんです。それは、ひとつの言い訳かもしれませんけど……(笑)。でも、舞台表現には、舞台なりのメソッドがそこにある。観客の前で踊るのと、誰もいないリハーサルスタジオで踊ることには、やはり違いも出てきます。ダンサーや演出家は、観客がいて、生の時間のなかで、距離や移動などを構成しています。たとえば、観客に近づくのか、引いていくのか、どこまで近づいて振り返ると印象的なのかなど、空間の中での経験上の勘を頼りに作品をつくっています。やっぱり、そういうのは、映像では伝わらないんですよね。
ただ、同じように、映像じゃないと伝えられないこともあります。その違いをちゃんと理解して、映像だから伝わること、その方法を、振付家やダンサーが経験的に学んでいかないと、良い映像作品はできないんじゃないかと思うんです。舞台をそのまま収録したものだったら、生で見た方が、やはり面白い。舞台を映像にするときに、撮影する人だけでなく、振付家自身も、映像だったら何が伝わるのかを勘として知っていかないと発展しないと思うんです。そこを勉強していきたいとずっと思っていました。

#6 ─ たしかに、映像を通じて、コンテンポラリーダンスについて触れる機会が、多くなったように思います。そうした動向のなかで、舞台の記録ではなく、ビデオダンスにこだわったのは、なぜでしょうか。

日本から、面白いビデオダンスを発信したいという思いはありました。とにかく現在は、情報の受け手は色々と情報を選択できますが、コンテンポラリーダンスについては、発信する側の情報が不十分なように感じています。たとえばテレビでも、コンテンポラリーダンスの振付家が採用されるようになってはきたものの、そこには、ひとつの方向性がありますよね。基本、音楽があって、カウントで振付けができる。でも、コンテンポラリーダンスの舞台の魅力というのは、それだけではない。もっと違う面白さがあるはずなんですが、それが、映像では実現されにくい状況にあると思います。それは、映像制作者側だけでなく、ダンスの振付家自身が、どうやってアピールできるかを、まずは考えていかないといけないと思います。映像として面白い、そしてダンスとしても魅力あるものを、振付家が昇華していかないといけません。そういった点でも、ビデオダンスというものに、まずは挑戦してみたいと思いました。

#7 ─ では、ビデオダンスを制作するにあたって、「質量, slide ,&  .」の舞台作品をベースにしたのは、なぜでしょうか。

映像だからこそ面白いものを追求したり、映像作品をつくる経験をとにかくやってみる、という意味でも、作品の題材が身近にあって、構成としてもコンパクトな方法を選びました。映像でモノの重さを伝える、「質量感」を表現するというのは大きなハードルではありますが、映像を介して伝わりにくいものを、身体をもって伝えることに挑戦しようと思いました。ダンスのフォルムやリズムなどは視覚的にも表現しやすいのですが、このダンス作品を、映像作品として再構成することで、メディアのなかで、ダンスを体感として伝えるための糸口があるのではないかと考えています。「質量感」を、映像のなかでどうやって伝えるか、ということに挑戦するだけでも、経験としてとても大きなものになりました。
また、実際の踊りについて考えたときも、「質量, slide ,&  .」のテーマが、今回のプロジェクトでの挑戦に適していると思いました。舞台でのダンスは、音楽に向き合うものだったり、何かの題材を表現して観客に向き合うものだったりしますが、映像作品では、もちろんその場に観客はいません。「質量, slide ,&  .」は、モノと向き合うことが大きなテーマでもあるので、観客がいなくても、ダンスが成立できると思ったんです。ショーダンスなんかだったら、アピールする相手が不在だったら、やはりきついですよね。音楽にあわせて踊るとPVに近くなるし、舞台のダイジェストだと、ドキュメンタリーに近くなる。映像にすることで伝わるダンスを経験するためにも、「質量, slide ,&  .」をベースにしようと思いました。

#8 ─ 撮影し、ご自身で編集作業に取り組んでみて、いかがでしたか。

映像となる画を想像して、それをカメラの前で踊ってみるというのは、やはり身体が追いつけないですね。踊ると疲れるし、ある意味、満足する。それでいい場合もあるけど、しばらくたって、映像を見ると、「こうしておけばよかった」というのは多くあります。カメラアングルや照明とか、色々と気づく点が出てくるんです。撮影現場でのコミュニケーションについても、はじめてのことが多かったです。どういう指示を出せば何が伝わるとか、どこまで指示するべきなのか、どうやったら共有できるのかとか。舞台作品の制作現場で人と関わることには慣れてきてはいるんですが、撮影の現場では、感覚として慣れていないことが多くありました。
編集作業では、ダンスの「間(ま)」がとにかく気になりました。今回の作品では、モノがあるから、それとの関わりのなかで、踊りのリズムは、少しは成立しています。でも、映像で見ると、何に向けて踊りがあるのかわからない瞬間とか、「間」が短かったり、長過ぎる部分もあります。お客さんがいたら違いますよね。そういった部分を、カットしたり、スピードを調整したりしていくうちに、もう一度振り付け直しているような、そんな印象があります。そういった作業は、舞台で、ダンサーに振付けをしているような感覚に似ていますね。

#9 ─ 今回のプロジェクトでは、完成した映像作品、撮影の全素材をwebで公開していますが、実際にweb上で、ご自身の映像作品を見て、どのような印象をもちましたか。

自分の姿が、たくさんの人に見られることを考えると、単純に恐怖心はありますが、編集済みの映像作品とほかの映像素材が、ここまで同時に色々と動くと、僕自身も客観的に動かして、絵として見ちゃいますね。新鮮に見えます。webの中にある、ある種のゴーストのような……。人間なんだけども、ビットのなかの情報でしかないことで、受け手の接し方も異なるように思います。演劇のなかの台詞と、映画のなかの台詞の接し方に違いがあるように、webにも明らかに違う感覚がありますよね。今後、このサイトを公開して、いろんな人が見たら、僕の感覚にも新たな変化があるかもしれないし、レスポンスや発展もあるかもしれません。そのことは、今からとても楽しみです。


収録:2010年12月15日 山口情報芸術センター[YCAM]にて