4. ウェブサイトの可能性—コンテクスト

4. ウェブサイトの可能性—コンテクスト 「Choreography filmed: 5 days of movement」ウェブサイト

竹下 ─ では、ここからは、今回のプロジェクトのウェブサイトの話をしていきたいと思います。まず、白井さんにお伺いしたいのですが、このように自分の作品がインターネットで視聴される。さらに、白井さんが使わなかったカットも見られる。つまり、膨大なデータと相対化されるようにご自身の作品が存在しているわけですが、ウェブサイトを通じて何か発見はありましたか。

白井 ─ 僕が選ばなかったカットが出るということは、僕が個人的に「いけてないな」と思った自分の姿が出るということですよね。それはやっぱり恥ずかしいものです。自分が選んだショットですら、微妙だなと思いながら見返して編集していくわけですから。
最初に撮影中の様子を中継したり、今回のようなウェブサイトをつくるという提案を受けたときは、制作過程から最終的に出来上がった作品まで繋がって見ることができて、アイデアとして面白いなとは思ったんですけど、いざ自分のこととして考えてみると、ちょっと嫌だなという気分もあったんです。
このプロジェクトは、このウェブサイトから先のことも考えていくという側面があるので、結論はまだ出てはいません。まず、ここから起こる出来事を体験した上で、僕がインターネットや映像をつかって、どうすべきなのかが分かればいいなとは思います。まさに身をもって、インターネットというものを体験している感じがします。

北野 ─ 世の中には「インターネットで映画を流すとは何事だ」と憤慨する映画関係者もいれば、「日本有数の魅惑の身体を持つ白井さんのビデオダンス作品がインターネットなどで眺めることにいかほどの意味があるのか」とため息を漏らす舞台関係者もいるでしょうね。そうしたネガティブな声が生まれるコンテクストもわからなくもない。ただ、他方で、デジタル環境が、すでに、わたしたちの感性と思考に関わる一種のデファクトスタンダードとして機能しはじめていることは否定しがたい。畢竟、これからの表現行為は、そうした側面、もしかすると様々な問題を抱え込む、デジタル環境という新しい状況をどこかで意識していかねばならないことも確かです。それが、たとえ、デジタル環境を眼中に入れないという態度であったとしても、です。
それでいえば、情報化社会と呼ばれているものは、実はメディア社会であって、メディア社会というのは多くのところ映像社会といっていいところがある。いま、こうして大量に映像が流通する時代に、今回のビデオダンス作品のようなものを試みるとして、それをいったいどのようにすればわたしたちの視界、わたしたちの新しい文化状況にきちんと位置づけられるのかという問いが、大きな課題として立ちはだかっていると思います。たとえばイギリスでは、これはCGによる文化財復元関連のコンテクストですが、「ロンドン憲章」という一種のガイドラインを策定しています。博物館が文化財をインターネットで公開するときには、そうしたガイドラインに即して、単に文化財を映像化するだけではなく、その映像表現の表現的価値を、それに付随する情報と合せてきちんと見えるようにしている。つまり文化財としての映像を、単体としてだけではなくて、その周りにある文脈も含め、ネット環境なりにアップしていくという方法論ですね。

竹下 ─ 映像に限らず、これだけインターネット上にある情報が膨大になってくると、検索なしには必要な情報にアクセスすることはできませんよね。そして、検索という行為を軸に情報が重層的にネットワーク化されている。もはや、ある情報を単体で読む/見ることができなくなっているという側面はあるでしょうね。
また、映像表現については視聴環境の問題もあると思います。たとえば映画の場合、映画館以外でもDVDプレーヤーで見たり、インターネット上のサービスで見たり、iPadで見たり、さまざまな環境、シチュエーションで見られるようになってきていて、もはやそれが前提化しているようにも思えるのですが、そのあたりのことは映画の研究者としていかがでしょうか。

北野 ─ 映画では「フューチャーシネマ」と呼ばれる動きがあります。つまり、デジタル技術の登場によって映画が終わるのではなく、映画の「言語」といったものや、映画の歴史を踏まえながら、むしろ新しいかたちを得て、映画なるものが自らを刷新、自らの存在の輪郭を広げてていくという考え方といっていいものです。映画が培ってきた言語や歴史はすでに相当のものがあり、またわたしたちの感性と思考はそうした蓄積をすでに組み込んでいます。映画は、己に関わるかつての限界をやすやすと超え出でて、ありとあらゆる映像表現にその力を及ぼし始めている。私は去年「トイ・ストーリー3」を見て涙を流しました。あまりに映画史的な引用に満ち溢れていて、です。
むろん、「フューチャーシネマ」には、視聴環境の変化も射程に入っていますから、その立脚点に立てば、映画館の暗闇の中で、座席に身を沈めて、黙ってスクリーンを見る、という行為だけが映画というわけではなくなってきています。もともと、初期の映画も、もっともっとアトラクションに近かったことを思い返しておくことも必要かもしれない。ですので、私としては、デジタル技術が映画の魅惑を消滅させていくのだと即断してしまうような心配はいささかも持ち合わせていません。ではなく、むしろ、映画の力とデジタル技術の可能性がマリアージュしていく道筋に心を柔軟にして接していくべきだと思っています。
白井さんのビデオダンス作品のなかで無重力状態のようなシーンがありました。ベッドに寝っ転がりながらiPadでインターネットを見ているときの浮遊感、自らの身体と画像の関係が生み出すこれまでにない浮遊感と、それはどこかしら響きあっているところがないでしょうか。そういう映像との位置関係とか、視覚の安定性とか、適切な距離感といったものがどんどん更新されていっているような実感が僕にはあります。今回のウェブサイトプロジェクトは、そうした今日の感性、ともうまく呼応する可能性を感じました。