白井剛×北野圭介トークセッション

日時:2011年2月23日 15時30分〜16時30分
場所:山口情報芸術センター [YCAM] スタジオC

INDEX
1. 舞台から映像へー「質量」は見る人とのつながり
2. ダンサーの感覚を伝えるー即興的ダンスと撮影
3. 「ダンスの秘密」とリアリティー
4. ウェブサイトの可能性—コンテクスト
5. 新しい「ライブ」感覚の誕生
6. インターネットがもたらす「作品」の変化—始まりと終わり(1)
7. インターネットがもたらす「作品」の変化—始まりと終わり(2)

7. インターネットがもたらす「作品」の変化—始まりと終わり(2)

7. インターネットがもたらす「作品」の変化—始まりと終わり(2) ビデオダンス「質量, slide ,&  . in frames」の1シーン

白井 ─ 美術の世界では作品という枠組みをどう超えていくかという動きや現象が、既に何十年も前に起こっています。もともとは画廊で絵や彫刻などの「作品」という完結したものを個人が買って所有するということが美術のプラットフォームでしたが、いまは所有することができない作品も多い。所有されることを目的とするのではなく、体験することであったり、あるいは所有も体験も求めない作家の営みや考えそのものを作品としたり、さらには「作家」というもの自体も消えてしまったり、そのように枠組みを積極的に、そして意識的に変えていった時代があったのだと思います。
今の状況というのは、積極的に、意識的に変えようとして変わっているのではなくて、むしろテクノロジーの急激な変化によって変わらざるを得ないほうに追い込まれているのかもしれません。昔の美術家や哲学者たちが未来に向けて提案していたコンテクストの解体や拡張がいま現在形として起こっていると言うことなのかもしれません。「本当に人間はそれに対応できるのか」という疑問も、反対に「どこまで対応できるのが人間か」、「人間とはなにか」という問いにもなっていると思います。

北野 ─ 人によってはそれをデモクラティックと言うのかもしれないけれど、少なくとも個人的には、作品は作品として存在する文脈や歴史をつくっていくことが重要だと思っています。できれば、必ずしも保守的な枠組みではなしに、です。そのためには、誰かが「これは作品だ」とさまざまな媒体で言い続けるしかないでしょう。今回のビデオダンス作品も、「ここが編集されたもので、最終的にはこういう作品になりました」ということをYCAMがウェブサイトで出すということが極めて重要だと思います。
ウェブサイトでは最終的に出来上がった作品以外にもすべての素材が見られるわけですが、これが全然グループ分けなしにYouTubeに流れていったら、全部一緒になってしまいます。まあ、それはそれで面白いという点も否定できないのですが……。

竹下 ─ 実はこの後、今回のビデオダンス作品におけるすべての素材がダウンロード可能になる計画があります。ですから、北野さんが懸念されるような状況にならないとも限らないのですが、それも含めて実験していきたいと思います。
これに関して白井さんにお聞きしたいのですが、これから先、知らない人が、同じ映像素材を用いて、まったく違う編集の仕方で、映像をつくるということが起きうると思います。それについてどう考えていますか?

白井 ─ いまでは素朴に興味深いと思っています。冒頭にも少しお話しましたが、人が生きているということは、常に後手に回っている、とも言えると思うんです。身の回りには環境があって、それに対応することで人は生きていく。僕が踊りの時にものを使うのは、たぶん後手に回るための、受け身の体として立つための、ヒントとして使っているのだと思うんです。映像を編集しているときも、ビデオカメラで撮影された、自分が踊っているときには見れない自分の姿が素材としてそこにあって、じゃあ、これにどう対応するのかと、改めて後手に回ってやるわけです。そうして手足を動かしているうちに、あるところで先手にひっくり返ってしまう瞬間があったりする。無意識的に何かやろうとしたということを自分で意識したときに、そこで自分に気づく訳ですが、再び選択に迫られる。押し進めるべきか、それともこの辺でやめるのがスマートか。編集でもダンスでも、人はそういう選択をしていると思うんです
今回の映像素材を使って、誰かが編集して映像をつくる場合、あの映像素材を人がどうするか、言い換えれば、あの映像素材という環境の中で、編集というダンスを人がどう踊るのか興味があります。単純に、他人がどうあれを扱うのか見てみたい。あと、あの映像素材に映っている自分は自分ではあるんだけど、編集中に何回も何回も繰り返し見ているうちに、だんだん「これは自分だ」という自意識というか、自分自身と映像に映っている自分の姿との繋がりが薄まって行くように感じました。「みかんみかんみかん…」と繰り返すうちに「みかん」って何だっけ、となってしまうような。自分の姿形をみて自分だと感じないというのは、日常生活者としては少々ヤバいかも知れませんが、ダンサーとしては有効かもしれない。
ネット上の映像素材達と自分との関係は、例えるなら爪のような感じかなと。爪切りで切ったあとの爪は、それをまじまじと見られたらなんだか恥ずかしい感じがしないでもないけれど、それはもはや自分からは切り離されていて自分ではない。成長もしないし、退化もしない。でも、どこか思いもよらないところに転がっているのを見つけたなら、へー、こんなところにまで跳んでいたか」と思う。そんな感じで自分が映った映像素材に再会するのかもしれないと思います。

竹下 ─ さて、もう少しお話をしたかったのですが、いよいよ時間がなくなってきてしまいました。最後に、このプロジェクトを通じて得た感覚を、今後どのように発展させていきたいのか、そのあたりのことを白井さんに聞いてから終わりにしたいと思います。

白井 ─ 今回、パフォーマンスに使う映像ではなく、映像単体での作品をつくって、「まだまだだな」と思う部分もあります。「質量」をテーマにしましたが、ここに在る「これ」というものを生で見たときの感覚と「同じ」でなくとも「対等」な感覚を、映像の中で伝えられたのかというと、いろいろ課題を感じています。そういう意味では、もっといろいろできるなとは思ったので、今後も映像の制作はトライしていきたいです。
それと、インターネットについては、今回のようなアプローチを今後、どういうかたちで自分の創作や生活の一部としてやっていけば良いのかこれからも考えていきたいと思っています。映像やインターネットでの活動を行う場合の、資金面や著作権上の問題など、現状での困難や、今後、必要なことなどについて考える機会になりました。自分個人だけではなく、いろいろな人の、それぞれのアプローチや考えを共有していくなかで状況も変えていければ、と思います。

竹下 ─ 北野さんはいかがでしょうか。

北野 ─ このような世界的に見ても、非常に果敢な取り組みをなされたと言っていい、白井さんと、山口情報芸術センターの皆さんにただただ感服していますし、その末席に加われたことをとても光栄に思っています。また、これからこのプロジェクトがどのような展開を見せるのか、非常に楽しみです。

白井 ─ 最後にひとつだけ。この作品は自分ひとりでつくったものではありません。関わってくれた全てのスタッフの皆さんに、拍手を。どうもありがとうございました。

竹下 ─ 白井剛さんと北野圭介さんでした。どうもありがとうございました。