現在の映像文化における、ビデオダンスを検証する

かつて、映像制作は高度な技術を必要とし、また、映像を見るための装置もテレビモニターや劇場のスクリーンなどに限られていました。しかし、この10年で私たちと映像の関係は大きな変化を遂げています。
街並みを覆い尽くすほどのデジタル・サイネージや、携帯電話やタブレット型コンピュータに代表されるデジタル・デバイスの出現。また、撮影機材や編集技術、インターネットを介した配信/視聴環境の急速な発展・普及によって顕在化した、膨大な数の「作者」と、膨大な量の映像。このような状況において、現在「映像」と呼ばれるものと、かつて「ビデオダンス」という言葉が生まれたときの「映像」とは、本質的に異なるものになっていると言っても過言ではありません。本プロジェクトでは、こうした「映像」を取り巻く多様な環境の変化を踏まえ、ビデオダンス作品の制作/体験方法をつくり出すことをひとつの大きな目的としています。

多様化する映像文化を見据え、新たなダンス言語を見出すプロジェクト

ダンス作品から、ビデオダンスへ

ビデオダンス作品「質量, slide ,&  . in frames」のベースとなったダンス作品「質量, slide ,&  .」(2004年初演、構成/演出/振付/出演:白井剛)は、舞台上に配置された様々な物(角砂糖やボーリングの球など)に、ダンサーの身体が関わる過程で発生するダンスが印象的な作品です。身体が持つ「質量」の存在を、物と接触することで確かめていくダンサーの動きには、世界に身体を投げ出すような暴力性と、物を丁寧になぞるような繊細さが共存しています。
ビデオダンス作品の撮影に際しては、舞台での上演時とは異なるセットを組み、物の移動や身体の動きを多角的に撮影。その映像には、舞台では伝えられなかった身体の微細な動きや物の重さ、手触り、温度などの、ダンスの「表情」が描写されています。こうして撮影された膨大な量の映像素材は、白井自身が被写体で、なおかつ彼の身体感覚を軸としているという点で、極めて主観的なものと言えます。一方で、編集作業を白井自身が手掛けることで、振付家としてのムーブメントに対する冷徹な視線で、映像素材を見つめ直す工程も生まれました。こうした、ダンス、撮影、編集という一連の制作過程の繋がりによって、ビデオダンス作品「質量, slide ,&  . in frames」は完成しました。

白井 剛「質量, slide,&  .」(2004) photo: Toshihiro Shimizu

白井 剛「質量, slide ,&  .」(2004) photo: Toshihiro Shimizu

プロジェクトのながれ

7時間×5日間のにおよぶ撮影映像を中継

白井がセットの中で「物」と向き合うことで映像の中のダンスを立ち上げていく、という撮影プロセスは、白井の特徴である、即興的な振付と深く結びついています。そこで、本プロジェクトでは、5日間、累計35時間にもおよぶ撮影映像を、インターネットで中継し、ダンスが生まれていく瞬間を公開しました。こうした試みは、視聴者が「すべての撮影素材を見る」ことであり、「即興のダンスを見る」ための新しい方法、環境ともいえるでしょう。個人の時間や空間の感覚が変容していく現在において、ダンスを見るという体験とは何か、さらには「ライブ」とは何か—。ダンスと映像、その関係をインターネット上で公開し視聴するという試みは、今日的な「映像と身体」の可能性、さらなる問題を提起するのかもしれません。

USTREAM

インターネット中継(日時:2010年8月24日-28日各日13:00-20:00)

作品とともに、膨大な映像素材を公開

撮影された膨大な量の映像素材には、編集によってひとつのビデオダンス作品として構成される以外に、映像表現として更なる可能性があるのではないか—。そんな、問いかけから、新たな視聴環境となるwebサイトの企画/制作が出発しました。本サイトでは、完成したビデオダンス作品「質量, slide ,&  . in frames」の視聴はもちろん、作品には組み込まれなかった別テイク映像も、作品本編と比較しながら閲覧することができます。これにより、白井が考える「より優れたダンス映像」のあり方、それをつくり出すための白井のまなざしが、より鮮明に、さらに相対化した形で映し出されます。

インターネットによって拓かれる、
ビデオダンス作品をめぐる2つのアプローチ

ここ数年のデジタル技術の進化により、映像を視聴する機材はもちろん、私たちは、多様な視聴環境や方法を選択できるようになりました。webサイト上では、膨大な量の映像が一挙に並び、ある映像と他の映像との関係性が可視化されたりと、様々な機能を備えた動画配信サービスも利用されています。こうした多様な視聴環境のなかで「映像」が広く認識されると同時に、インターネットを中心に、複製、反復、改変、共有が多重化した映像の新たな創作過程も生まれています。たとえば、ある映像作品が別の「作者」によって新たな映像作品に生まれ変わり、それが元の映像作品の意味にも影響を与えるといった創作…。こうした状況において、「映像」の視聴/発信の関係性、「主体」の存在も大きく変化しているといえるでしょう。無数の無意識的な「主体」が生成されては消滅するとき、アーティストの主体的な視点ともいえる「編集」という行為も捉え直されているのです。
本サイトで視聴できる映像も、アーティスト独自の視点に肉薄したビデオダンス作品であると同時に、「アーティスト」や「作品」を再考するような離散的なデータの集合としても捉えられます。ここで視聴される映像は、ひとつのビデオダンス作品の完成(=終わり)ではなく、新たな創作過程(=始まり)を意味するのかもしれません。ひとつのビデオダンス作品が、現在において、どのような展開を見せていくのか—。相反する2つのアプローチのせめぎ合いの中に、映像に対する新たな意識、映像と身体をめぐる新たな可能性が存在しているのではないでしょうか。