3. 「ダンスの秘密」とリアリティー

3. 「ダンスの秘密」とリアリティー トークセッションの様子:白井 剛氏

北野 ─ そうしたなかで、最終的には、もともと舞台作品だったものから、36分間のビデオダンス作品が生成されてきたということになったわけですが、そこにはどれだけの苦心、どれだけの葛藤があったのでしょうか。

白井 ─ 先ほどお話しした通り、僕は、ダンスを見ている人とダンサーの間に、「質量」というものが、「ダンスの秘密」を握っている、共感関係の鍵の一つではないかと考えています。舞台作品の方は、ものと関わったり、関わらなかったり、はぐらかしたりしながら、最終的には舞台からものがなくなって、でも一個の身体がそこで踊っている。そうしてただ踊っている人を前にして、見ている人がどれだけリアリティーを感じられるのか、楽しめるのか、という展開でした。でも、映像の場合、ラストシーンで全くものを無くして踊っている人だけが映っても、よく意味が分からないんですよね。
それは、1時間なり、30分なり、それだけの時間を観る側がライブで共有していないということが一番大きいと思います。仮に舞台作品をそっくりそのまま記録した映像を観た場合でも、ただのビジュアルになってしまう、つまり視覚以上に何かを感じられない可能性が高い。多分、ダンサーが体験している身体的なリアリティーの蓄積を、他者が感じ取るには、観る側も同じ場所に立ち会って同じだけの時間のボリュームを通過しなくては難しいのでしょう。もしかしたら、映像の描き方によっては、そこへ導けるのかもしれないのですけれど、僕にはそこに導くだけのシネマツルギー(映画的文法)がなかった……。
それで最後のシーンをどうするべきか考えたときに、種明かしというわけではないのですが、真っ白な背景から始まって、カメラが引いて行くとYCAMにこんなセットを組んで撮影したんだ、ということが分かるようなカメラワークの中で踊るシーンで終わるようにしようと思いつきました。最後だけ現実的な風景が介入させることで、映像全体をある種のリアリティーへ、もう一歩引き上げられないかなと考えました。

竹下 ─ 先ほど白井さんは、全体像がずっと見えなくて……とおっしゃっていましたが、どういう段階で、全体像が見えてきたのでしょうか?

白井 ─ 大きかったのは、バスローブみたいな衣裳を羽織って、空間に置いてあるものを順繰りに追い掛けていくシーンですね。あれは10分ほどのワンショットで撮ったのですが、ミュージックビデオなどのカットの連続によるスピード感とは違う、身体的な時間感覚を、映像でどれだけ伝えられるだろう、と思って試したんです。
最初は編集でもワンショットで見せるつもりだったんですが、単調に見えてしまったり、伝わりきらない部分が多くて、ちょっと耐え切れなかった。そこで、別のシーン、ものを天秤ばかりで計っている手元アップのシーンもコラージュのように配置したんです。この手元のシーンと、ものが配置された広い空間をバスローブ姿でウロウロしているシーンとの間に、ドラマ的なストーリーのつながりというのは、はっきり見えるわけではありません。コーヒーカップを置いた瞬間に、違うシーンに行ったり、あるシーンの物音を残したまま、また違うシーンに行ったりしたときに、ものに触れたり並べ置かれたりするという行為が、音と空間と時間の中で新しいリズムと新しい意味合いを紡いでくるように感じました。
それに付随して、最初の倒れるシーンは、3パターンの違う倒れ方を撮影してあって、それを順に繋げようとしていたのですが、1回目の倒れる瞬間に、床にぶつかるところを見せないで次のシーンに行くことにしました。その方が、映像の勢いというか、スピード感が出ました。人が倒れる瞬間というのを生で観たときの迫力が、映像ではどうしてもだせなくて苦労していたのもあります。そのカットを全体の中で間を置いて何度かリフレインのように挿入することで、映像固有のイメージや時間的なうねりや、全体のリズム感を見つけられました。その辺りで「いけるかも」という感触をつかんだ気がします。