白井剛×北野圭介トークセッション

日時:2011年2月23日 15時30分〜16時30分
場所:山口情報芸術センター [YCAM] スタジオC

INDEX
1. 舞台から映像へー「質量」は見る人とのつながり
2. ダンサーの感覚を伝えるー即興的ダンスと撮影
3. 「ダンスの秘密」とリアリティー
4. ウェブサイトの可能性—コンテクスト
5. 新しい「ライブ」感覚の誕生
6. インターネットがもたらす「作品」の変化—始まりと終わり(1)
7. インターネットがもたらす「作品」の変化—始まりと終わり(2)

6. インターネットがもたらす「作品」の変化—始まりと終わり(1)

6. インターネットがもたらす「作品」の変化—始まりと終わり(1) 「質量, slide ,&  . in frames」撮影中の様子

白井 ─ 北野さんのお話で最近の学生など若い人たちは、毎日何十枚も自分や友達やその日の出来事を写真に撮って、それを集めたり、また誰かに配ったり、インターネット上にアップロードしているとお聞きしました。常に自分と自分をとりまく情報を採集して、それを配信するという、入出力を繰り返すプロセスの中に楽しさと同時に安心を感じているというか、それによって自分の存在を確認しているような感じなのかなと、思いました。
もともと僕は自分の考えていることを人に出力するということを、怖がる傾向が比較的強いと思っているんですけれど、でも、ダンスを始めたり、ものを創ったりしているっていうことは、自分のことを知ってもらいたいというところもあるんだと思います。人間の中にはそういう欲望が本来的にあるのだと思いますが、日常生活の中で常時誰かに接続している状態を求めるというような感覚は、自分は追いついていけない感じがしています。

竹下 ─ 特に2000年以降、インターネットを取り巻くインフラやサービスが入って劇的に進歩したことで、白井さんがおっしゃったような現象が起きるようになってきましたよね。今日のインターネットには、まさに身の回りの何気ない風景をおさめた写真や、日記など、これまで表には出てこなかった生活のログのような断片化された情報が、公益性の高い情報とともに膨大にインターネット上に溢れ返っています。 ちょっと思うのは、こうした状況下において、今回のビデオダンス作品のような、アーティストによって編集された作品、つまり一個人の意図に沿って外へ出た作品は、その背景に持つさまざまな関係性が、可視化されやすいのではないかということです。さきほど北野さんが、映画史的引用に満ちた「トイ・ストーリー3」を見て、涙を流した、という話をされていましたが、そうした引用元に容易にアクセスできるのが現在の状況だと思います。
もちろんインターネット登場以前にも参照可能な膨大な映像アーカイブはあったとはいえ、関係性がここまで可視化され、容易にアクセスできるようになると、いったいどこまでを「作品」として受容すればいいのか、という問題が出てくると思います。この辺りの切断というか線引きについてはいかがでしょうか。

北野 ─ 明確な回答を出すのは難しいですね。たとえば、あるアメリカの研究者が自らの本をインターネットで公開しはじめました。そうすると、読者からいろいろなフィードバックが返ってくるわけです。その研究者は、有益なフィードバックは随時本の内容に反映していくというのを折り込んで、本のアップというそのプロジェクトを始めたようです。その意味では、グーグルなどがやっている、既存の本のネットにおける閲覧環境の整備というフレームを超えた、いわば、本という概念を根本的にバージョンアップするプロジェクトであるとさえ言えます。つまりは、その本には完結という概念がないんです。
蛇足を承知であえて言っておけば、メディア史を紐解けば、本を最初から最後まで読んで、「ああ、読んだ」っていう気になるのは活版印刷の出現以降です。それ以前というのは、司教が、写本した神の言葉をバッと開いて、そのページを見て恍惚して終わりです。さらには、そういうページがどんどん書き足されたりもしたようです。ですから、このように歴史を俯瞰してみると、最初も最後もないというのは、そんなに奇異なかたちではないんです。

白井 ─ もっと遡れば、たとえば演劇以前には、儀式のようなものがあったんだと思います。儀式にも一応、始まりと終わりはありますが、儀式が終わったところから、参加した人たちの生活が再び始まるわけです。つまり儀式においては、そこに居合わせる人々の、これまでとこれからの生活が続いていくということが重要で、儀式の始まりと終りそれ自体には、その前後の生活時間への接続点以上の重要性はあまりないのではないかと思います。
昔はこうした始まりと終わりが明確ではないものが普通に存在していたのだろうと思いますが、その後、意識的に始まりと終わりというものを仮定していく方向に進んできたようです。鬼ごっこや、かくれんぼなどの子供の遊びにはもともと終りが無いし、始まりも曖昧。それが成長と共に、あるいは歴史と共に、始まりや終りがあるものになっていく。始まりと終りの代表的なもの、たとえば人が生まれて死ぬということもそうですが、それを集約して追体験しようとすれば、それは演劇にもなるかもしれませんし、相手を倒して自分が生き残る「闘争」の始まりから終りをコンパクトに体験しようとしたら、スポーツやゲームになる。
舞台上では、ダンスも始まりと終わりをつくらないといけないけれども、映像やインターネットだったら、始まりも終わりもないダンスをつくることができるかもしれない。そうしたダンスが本来のダンスの在り方のような気もするのです。始まりと終わりが必要だと、起承転結を解りやすくする為に、ドラマ的なストーリー性を臭わすことにとらわれてしまったり、あるいは、なんとか終わらせる為に無理矢理オチを付けたくなる。でも、「この動きが美しい」ということに、もともと始まりも終わりもないわけです。「始まりも終わりもない在り方」という可能性、あるいは「問い」が、今、出てきていると思います。

北野 ─ いずれにせよ舞台での表現も含めて「作品」と呼ばれるものが、ここ数百年の間はある形態をとっていたけれども、それをもう1回、シャッフルしなければいけない時代に入っているのではないかなと思います。そのときに、どこが参照枠なのかを手探りしながらやっていかないといけないでしょうね。
ちょっと話を迂回させて言うと、ビデオゲームをつくっている人や研究している人たちから、作品論がなかなか出てこなかったりする。これは非常に面白い。別に彼らが怠惰なわけでも能力がないわけでもない。一部に作品論は出ているし、きわめて優秀な方が多い。だけれども、一般的な状況でいえば、作品ではなく、プラットフォームについての議論がすぐに前景化してくるというところがある。私が務める大学でもよく、「ビデオゲーム固有の困難は何か」と議論していますが、それは何かといったら、すぐにプラットホームの話題へと変わっていく。参照枠が、あまりの速さで変容していくことへとまなざしが素早く反応している。
いま、美術館の中のホワイトキューブがうまく機能していないのではないかという議論がよくなされていますが、それが意味しているのは、端的にいって、「作品って、こうなんだ」ということの枠組み、たとえば「バレエは舞台で見るものだ」とか「絵画は四角くあるべきで、ホワイトキューブの壁に掛けられるものだ」とか、そういった枠組みが崩れ去り、フルスロットルで多様化しているということです。インスタレーションなどという言葉で収拾できていた時代が懐かしいほどです。そこでも参照枠がめまぐるしく変化している。
この問題を放っておいたら、アナーキーなフラット化というのか、玉石混交というのか、何でもありの状況となってしまいます。