5. 新しい「ライブ」感覚の誕生

5. 新しい「ライブ」感覚の誕生 「質量, slide ,&  . in frames」撮影中の様子

竹下 ─ そういえば、このウェブサイトのプランニングをしているときに、白井さんには、ウェブサイトの中にご自身が住んでいるというイメージがあったそうなんですが……。

白井 ─ そうですね。DVDやテーブなどの記録媒体を再生して見る映像と、インターネット上で見る映像との違いが、感覚的に少し解ったような瞬間がありました。上映会に向けて編集を進めながら、ウェブ上での展開などについても打ち合わせしていた時期です。黒い背景の中を人が浮いているように撮影した映像素材が、ウェブのテスト用にネット上で映っているのを見たとき、黒バックなので画面の枠も消えて、クリックすると勝手に動き始めるので、なんだかこれは、上映するとかソフトを再生して視聴するとかとは違う感じがする、と、スタッフの皆さんとそういう話になったのです。それから、U-stream中継も、僕自身は観れないので解りませんでしたが、観てくれた人が、中継の小さい画面のなかで動いている僕を観ていると、なんだか餌とかを与えたくなった、という感想をくれました。
ネット上での展開については主にYCAMスタッフの皆さんから提案をもらって、大部分任せた状態で進めてもらっていたのですが、いろいろ考える機会になりました。たとえばゲームで言うと、昔は本体にカセットを挿してスイッチを入れると、ゲームの世界が画面に現れます。そして、カセットを抜くとその世界は完全にオフになる、消える。カセットやディスクなど触れるものを挿入したり抜いたりという行為と、「アクセスする」という感覚は、小さいようで案外大きく違うかもしれない。インターネットの場合、たとえばロールプレイングのネットゲームやセカンドライフのようなバーチャルなものなどをイメージすると解りやすいかと思いますが、アクセスするといつでも人や世界がそこで動いているので、その空間が自分の関与しないところで、ずっと「在る」ような、自分の方がその場所に訪れた、という感覚がある。本当は、コンピューターが再生している過去の映像だったり、プログラムでしかなかったりするんですが。それは、擬似的で錯覚かもしれないけれどある種の「ライブ」感とも言えるんじゃないかと思います。
映像やインターネットはライブでの体験ではないから、ダンスを映像化することは難しいだろうと考えていたんですが、うまく使えば、ある種の「ライブ」感のようなものを導き出せるかもしれないと感じました。その辺をもっと意識したアプローチを積み重ねて行けば、映像のなかで発展してきたものではない、僕がやっているようなダンスの、ダンサーや振付家がもっている身体や時間や空間についての感覚を、劇場やライブパフォーマンスではない場所へ広げて活かして行けるかもしれないと感じました。

竹下 ─ そういった新たな「ライブ」感への予感みたいなものは、今回、ひとつの作品のコンセプトが舞台から、撮影の生中継、そして映像作品、ウェブサイト、と異なる形態へと出力されていく中で、徐々に明らかになっていったのだと思いますが、この辺りのことについて北野さんはいかがでしょうか。

北野 ─ 表現というのは、単純化していうと、表現内容と表現形式がふたつ合わさって存在しているところがあります。さらに言えば、表現形式というのは、伝達回路に乗っかっています。舞台作品もそうです。かつては内容、形式、媒体、それを体験する観客の身体性、それらが完全に同期することで、ライブ感が発生していましたが、今日のデジタル技術で「ライブ」感を発生させるには、必ずしもそれらを同期させる必要はありません。それはニコニコ動画などを見るとわかると思います。インターネットの中のこうした「ライブ」感というのは、舞台におけるものとは違うけれども、「ライブ」感であるのは確かです。あるいは、新しい「ライブ」感といっていいでしょう
そうしたものを作品に取り込んでいくということは、その両者のずれを、意識的に織り込んでつくるということですよね。観客が熱い気持ちになったり、クールダウンしたりする時間というのが、実際に踊っていた時間とはずれているので、その予測不可能性みたいなものを、何らかのかたちで自分の中に内面化していく必要があるのだと思います。
少し具体的に、というかかなり細部であるものの重要な表現ポイントに沿って述べておくと、特に顔を中心として自らの身体というのは、自分にとって不可視であり、不可知ですね。「自分の身体って、こういうものじゃないか」というイメージの束が何となくあるだけで、どこにも「ライブの私」なんかないわけです。でも、そういうイメージを束ねている構造は、今回の作品をつくる過程で、あるいは今後の過程で組み換えられていくかもしれないなと思います。